教師同士のいじめが物語ること

こんにちは!
仮り暮らしの徳永です。

ちょっと色々あってブログをお休みしてました。

今回のお題は「教師同士のいじめが物語ること」です。
このニュースを目にしたとき、「あぁほらやっぱり」と、私の考えを肯定せざるを得ませんでした。

ずばり、「いじめはなくならない」です。

 

 

結局は人間性にかかっている

これまでに何度、「いじめはいけません」とか「いじめをなくそう」という言葉を見てきたでしょうか。これまでにどのくらいの人間が、同じようなことを言ってきたでしょうか。

結局、裏でそれをあざ笑うかのようにいじめが横行しています。子どもに教える立場にある人間ですらもあのざまです。

あまつさえ、自分たちの所業だけでは飽き足らず、子どもたちにまで「あいつの学級をつぶせ」とまで言っていたのですから言語道断です。

つまり、外野が何をどれだけ言っても「へぇー、ごくろうなこったねぇ」と思うだけで馬の耳に念仏という言葉がピッタリな人間が、必ず一定数は存在するということです。

どうしたらいいの?

行きつくところまで行ってしまったら、もう、どうもしようがないと思います。人の心は本人が主体的に考えないと変わることはありません。

極端な話、「人間の歯って、歯磨きは月1程度でいいんだってさ」と言われたところで信じられる人はいないでしょう。パワハラは良くないとあちらこちらで啓蒙されていますが、パワハラが消滅したわけではありませんね。

強いて言えば子どものうちから「いじめ」について語り合うことですが、それにしたって右へ倣えで「いじめはよくありません」と、(当人としては)心にもないことを言っとけば終わる問題です。一部の人間にとっては何の意味もありません。

以前のブログでは、「いじめは本能でやってる」みたいなことを書きました。本能を理性で抑えているのだとも書きました。これが例えば、「納豆を食べるからいじめなんか起こすんだ」みたいに原因物質みたいなのが判明すれば対処のしようもあると思いますが、そんなことないですよね。

なので、私としては「いじめをなくすためにはこうしよう」みたいなのはたいした意味はないなと思っています。

いじめはもはや犯罪扱いすべき!

「もはや戦後ではない」は有名な言葉ですね。戦後日本の経済白書でその復興ぶりを指した言葉です。

これをちょっともじって、日本のいじめのヒドさを指して「もはやいじめではない」という言葉を作っても良いと思います。

例えば無視するとか、仲間外れにするとか、ばい菌扱いとかは、フツーにあることだと思います。でも、それが原因で死を考えたり実際に死人が出たとしたら、それはもはや「いじめ」じゃありません。殺人です。犯罪行為です。

ところが日本では、一部の人間は加害者になっても守られます。例えば子ども、例えば教師、例えば政治家。警察官や大学教授、病院の院長など、権力を持つ人間やその関係者であればあるほど守られます。

一方で世界では、例えばアメリカでは、通学中のスクールバスでヘイトクライムを行ったとして、10歳と11歳の女児が逮捕されています。2019/9月のことです。

■参考:11歳女児をヘイトクライムで逮捕、アフリカ系の10歳児に差別発言
https://www.cnn.co.jp/usa/35143062.html
(リンク切れはご容赦ください)

この記事によると、被害児童は「顔面にあざができ、髪の毛を引き抜かれ、バスの座席に倒れ込んだことで両ひざにけがをした」そうです。加害者は10歳と11歳の女児ですよ。男子より女子の方がえげつないって言いますけど、いやはや、子どもってここまで残酷になれるんですね。

さて、ヘイトクライムといじめを同列に扱うかや、アメリカでも権力者は守られるぞ、という問題はさておき、日本でもいじめによるこういう怪我はありますよね。

教科書を燃やされる、体操着を切られるなんて序の口で、中には性的ないじめをうけたり、根性焼きと称してタバコの火を押し付けたり。そういうの全部、深刻なものは犯罪として警察が介入しても良いと思うんです。いや、「しても良い」ではなく、「すべき」だとさえ思います。

どの程度のことをしたらどうなるのかは、それこそ裁判員裁判の制度をもっと使えるようにして決めればいい。なんにしても、とりあえず言っとけみたいな雰囲気で「イジメハダメダー」なんか言ってたって何も変わりはしません。

 

それでは、今回はこの辺で。
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