徳永について_8_闇金とその後の家族

さて徳永シリーズ8回目は下記について書いて行きます。
・闇金のお話
・自宅、競売される
・祖父母の死

闇金のお話

注文してないピザが届いたもありました。覚えが無いので宅配のお兄さんを帰すと、その後に電話で「あ!もしもぉ〜し。ねぇねぇ、ピザ美味しかったぁ?」という気味の悪い男から電話が来た(これも私が取って、その時は父親がかなりの温度感で対応してくれた)のを覚えています。

あれは完全に闇金の手口ですね。嫌がらせをして相手を怯えさせ疲弊させるという常套手段です。ピザはたしか2回ウチに来ましたが、いつのまにか各種の嫌がらせは収まりました。

闇金に手を出した理由は不明です。今でも夫婦互いに「アイツのせいだ」と言いますし、いまさら蒸し返しても益はないので闇に葬ります
ちなみに言うと、父は冷静に対応してましたが母親が大騒ぎした印象があります。早くどうにかしろなんとかしろ、なんでこうなった、ここに相談しろああしろこうしろ、今どうなってるんだと。
母の接し方がなぁ。。。経緯はどうあれ、妻からの圧迫によく耐えたなぁ父。

自宅、競売される

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高校2年生だかそのくらいで、父が仕事を退職しました。退職金を借金返済に充てようと考えたのです。
それだけでは足りず、ついに自宅が競売にかけられました。育った家を破格の値段で買うために見学に来る、見ず知らずの他人を迎えなければならないのはとても嫌でした。お気に入りの持ち物が為す術もなしに奪われる、そんな感覚です。
私はあの家で過ごした部屋の写真を今でも持ってますし、みんなの歌「電車の窓から見える赤い屋根は〜♪(title:赤い屋根の家)」を聴くとしんみりして、たまにですが、気分が暗くなる時があります。
そうそう、数年経って我が家(だった今は他人の家)の前を通るときがあった時、まったく別人の表札が飾られているのを見て、あぁ本当に他人のお家になったんだなぁという感想を抱いたことを覚えています。寂しいというか、悲しいというか。文字にできない気持ちです。
今でもあの界隈に行くと気持ちがざわざわするのです。懐かしくて、嫌なこともあったけどいいこともあるにはあった、あの場所は。近寄りたくないわけではありませんよ。

祖父母の死

まず自宅が競売にかけられる直前に祖母が亡くなりました(認知症悪化+血液のがん)。そして自宅が競売にかけられ、引っ越しをしたその翌年か翌々年か、祖父が亡くなります。
祖父の晩年、父は介護をしながら仕事(アルバイト)に行くというすさまじい生活でした。私は手伝いたくても母に邪魔されるので何もできず。なんせ専業主婦で日がな一日居ましたからね、あの暇人は。
普通の専業主婦さんは忙しいと思いますが、彼女はねぇ。。。
あ、でも母は、祖父の食事の世話と排泄は手伝っていました。私は介護するために嫁いで来たんじゃない!」が当時の口癖でしたね。
これは余談ですが、祖父が何も分からなくなって自分のうんちを食べようとした時、母がそりゃあものすごいヒステリーを起こしました。私ではなだめられず、結局は救急車を呼び、運ばれた病院は終末医療は扱ってないのにゴネにゴネてゴネまくって入れてもらったくらいです。
祖父、さぞ悔しかったろうなぁ。まぁでも、母の気持ちは分からないでもないです。私も嫌か嫌じゃないかでいうと嫌ですから。本当は老人ホームにでも入れれば良かったのでしょうが、そんな大金どこにもありませんでした。
また、引っ越しの際、母は祖父母の荷物をほぼほぼ全部処分した(父同意のもとだと思いたい)ので、双方思い出の品が無いのが切なかったです。今でも思い出すと「なんで遺品が1個も残ってないのか」となりますし、私が登校中に引っ越しや廃棄物の手配をしていたので、作業を止めたりモノを隠したりできなかったのが悔やまれます。
こうして書いてみると私の母、鬼ですね。祖父母に対していい思い出が無いからでしょうけど。もしくは私が、母の悪い面しか見てないか。いやこれは…。
両親の別居までは書けませんでした。次回はそれについて書きます。
・成田市のアパート住まい、無謀な家賃
・追い詰められた父、追い詰めた母、しかし母も追い詰められていたのだろうか
・別居開始、「ママについてこないとあなたと縁を切る!」
 (*母は別居する時に子どもに言っちゃいけないことを全部言いきった感じがします)
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